CAP理論についてわかりやすく説明します
はじめに
現在はクラウドサーバーなどの分散システムを前提とした設計が主流になっており、データや処理を別々のサーバーに保持するという流れがあります。
そうした分散システムを設計する際に必ずと言っていいほど話に出てくるのがCAP理論です。
CAP理論とは
CAP理論とは、分散システムはConsistency(一貫性) 、Availability(可用性)、Tolerance to network Paritions(分断耐性)の3つの保証のうち、同時に2つの保証を満たすこと はできるが、同時に全てを満たすことはできないとするものです。
・Consistency: 一貫性
最新のデータを読み込むことができるという特性です。
・Availability: 可用性
必ずデータにアクセスできるという特性です。
・Tolerance to network Paritions: 分断耐性
何らかの障害により通信が分断されたとしても、データにアクセスできるという特性です。
これだけだと少し抽象的でわかりにくいので、銀行の口座情報を例にして1つ1つの項目について考えてみましょう。
例えばAさんが自分の口座からBさんの口座へ5万円の振り込みをしたいとします。
ここではわかりやすいように、AさんとBさんの口座には10万円が入っていることとします。
さて、AさんはBさんへ5万円振り込みました。そしてBさんへ連絡をします。
Aさん「5万円振り込んでおいたよ」
Bさん「ありがとう!確認するね」
そして、Bさんはすぐさま口座を確認してみました。すると、本来送られた後には15万円であるはずのBさんの口座には10万円しかありません。
このように、最新の情報を受け取れない状態のことを「一貫性がない」、と言います。
一方で、最新の情報ではないものの、口座情報にはアクセスすることはできています。この状態は、「可用性がある」状態と言えます。
では、もしBさんが口座情報を確認しようとした際に、何も情報を得ることができなかったらどうでしょう。
この場合、通信に何らかの不具合があってデータベースの情報にアクセスできていない可能性があります。これは、「分断耐性がない」システムであると言えます。
本当にトレードオフ?
さて、これら3つの特性を同時に実現することはできるのでしょうか?
常に最新の情報に、通信の障害があったとしても、必ずアクセスできる状態...。
一番最初に述べましたが、CAP理論では3つはトレードオフの存在であり、分散システムにおいて全てを同時に実現することはできないとしています。
どういうことなのでしょうか。
大前提としてインターネットサービスを行う事業者にとって、いつでもデータにアクセスできるというのは必須でしょう。先ほどの例のように口座情報を得たいのに、その情報にアクセスできないと言うのはユーザビリティを損ないます。そのため、可用性は必須と言っていいでしょう。
可用性を実現させるためには、単一障害点をなくす設計が必要です。
単一障害点とは、ある1つのサーバが何らかの不具合を持った時に、目的のデータにアクセスできなくなってしまう時のサーバのこと(点)を言います。
この部分と関連性が強いのが分断耐性です。通信の障害があった場合にもアクセスができるように設計をする必要があります。そのため、ある通信経路が接続不可能になったとしても、別の経路で目的のデータにアクセスすることができるようにします。
ただ、上記のように分散システムはデータを別々に保持しているため、通信による遅延などにより必ずしも最新のデータを全てのサーバで持つことができるとは限りません。ここで一貫性が達成できないと言うことになります。
終わりに
最近ではこのようなトレードオフの関係が必ずしもゼロイチの考え方ではないとして、BASEと言う考え方も出てきています。
これは最終的には全てのデータは一貫性が担保される、と言ったものです。
詳しい内容についてはまた書きたいと思います。
少しでもお役に立てば幸いです。ではまた!
私がFacebookからTwitterへ変えた理由をジョブ理論の視点で考えてみる
はじめに
私はつい最近、『イノベーションのジレンマ』の著書クレイトン・クリステンセンの『ジョブ理論』という本を読んだ。目から鱗とはこのことと言わんばかりに新鮮な視点を提供してくれたため、あっという間に読んでしまった。
具体的な解説は本や他の記事に任せるとして(下に少しだけ解説入れた)、本書を通して私は物事をどのように捉えるか、という根本の思考の枠組みを振り返らざるを得なくなった。今回はそのジョブ理論のレンズを通して、自分自身の利用サービスの移り変わりを辿ってみたい。その対象はSNSのFacebookとTwitterだ。私は最近Facebookをほとんど使わなくなり、Twitterをメインで使い始めた(1ヶ月前ほどはこの逆だった)。
ジョブ理論とは
最初にジョブ理論とは何かについて簡単に解説しておきたい。
本理論は、顧客の抱える片付けるべきジョブを明確にし、そのジョブを進歩させるプロダクトやサービスを提供することの重要性を説いている。ジョブの定義を「ある特定の状況に人が遂げたい進歩」としている。
そして本理論のポイントは、"なぜ人はその状況下においてある特定のプロダクトを利用(雇用)するのか"という因果関係を理解することに注目していることだ。従来のように人口統計的に顧客セグメントを分ける手法は、確かにある程度の傾向、いわば相関関係を掴むことはできるかもしれない。
しかし、相関関係がわかったところで、さらにサービスを提供する上でどのような取り組みを今後行っていけば良いのかという軸がわかるわけではない。「オムツの近くにビールを置くと売り上げが上がる」という相関がわかっても、それがなぜなのか、次にどのような施策を打てば良いのかはわからない。
一方、因果関係(なぜ人はそれを使うのか)がわかれば、その目的に沿った形でさらなる良いサービスを提供することができる。そしてこの視点を持つことで「競合」の枠組みが変わって来る。本書の中で出てきたマーガリンの例を紹介しよう。
人はなぜマーガリンを買うのだろうか。マーガリンにはどのような特性があるだろうか。今でこそマーガリンは不健康の代名詞として位置付けられているが、昔はそんなことはなかった。バターより安いし低脂肪だったため、人々に受け入れられていた。そのため、マーガリンを取り扱う各社は脂肪の含有率などの違いによる差別化をメインにしていた。しかし、当時含有率を差別化の要素とすることが本当に差別化になっているのかはわかっていなかった。なぜなら含有率を元に「どうしてある特定のマーガリンを選ぶのか」を考えても答えが出てこなかったからだ。
そこで視点を変えてマーガリンが解決しているジョブに着目したところ、それが明確になった。それは"飲み込みやすいようにパンの耳や皮を湿らせる何かが欲しい"だった。この観点から考えると、競合に対しての考え方が変わって来る。クリームチーズやオリーブオイルも競争相手になって来るのだ(確かにオリーブオイルをかけた食パンにさらにマーガリンを塗る人はそうはいないだろう)。
このように、消費者がなぜそのプロダクトやサービスを利用するのか、片付けるべきジョブは何か、という視点に立つことにより、今までと全く違った景色が見えて来ることがわかるだろう。
FacebookとTwitterの違い
ここでようやく本題に移ろう。
私は本書を読んだ後、自分が使っているサービスは私のどんなジョブを解決しているのだろうということを考えた。その中で特に面白いなと思ったSNSの移り変わりについて書いていきたい。
背景として、私は約1~2ヶ月くらい前から、ほとんどFacebookを使わずTwitterを使うようになった。逆にそれまではほとんどFacebookを使っておりTwitterを使っていなかった。どうしてこのような変化が生まれたのだろうか。
SNSサービスの特性は色々あるが、今回着目したいのは「個人が発信しているものがコンテンツとなる」というものだ。自分の近況や思っていること、気になった情報が主なコンテンツとなっている。
さて、そのような特性を考慮した上で、FacebookとTwitterの違いは何かを考えたい。
まずはFacebookについて。
Facebookはサービスの特性上、基本的には一人1アカウントであり、友達リストになを連ねるのは自分が直接知っている人たちだ。そのような場で人はどのような情報を提供するのだろうか。
最近の友達のいくつかの投稿をみるにつけ、私はFacebookの利用方法の特徴に気がついた。それは"Facebookは決意表明や宣伝の場"であるということ。ほとんどの人が自分はこんなことをしました、これからこういうことをしていきますなどといった投稿をしている(FacebookのUIが長文を許容するような設計になっているからかもしれない)。そして周りがそのような投稿をしているのだから、自分も何か特別なことを投稿しなければならないという気持ちが無意識的に出てしまい、自分もそのような投稿をしてみたり、逆に投稿を躊躇する人も多いのではないだろうか。最近はさらにエスカレートしているように思える。
一方のTwitterはどうだろうか。
TwitterはFacebookと違い匿名登録が可能で、複数アカウントを持つことも切り替えを行うことも容易だ。そのため、用途に応じて複数アカウントを切り替えるといったことが可能となる。これにより、友達の近況を知るアカウントと、情報収集のためのアカウントを使い分けることが可能となる。
そのほかの特徴として、言わずもがなだが140字という制限だ。これは機能面だけでなく、精神面での投稿ハードルを下げることにもつながる。140字以下であれば独り言程度のものでも気軽に投稿できる。実際投稿内容は気軽に思ったことや考えたこと、新たな気づきなど手軽なものが多い。
FacebookからTwitterへ移った理由
さて、ここで両者が解決している私のジョブを見ていこう。私は二つのサービスを通してどのようなジョブを解決してもらっていたのだろうか。
色々考えた結果たどり着いた結論は「様々な分野の最新知識や知見を専門家からの視点で知りたい」であった。つまり知的好奇心を満たすもの、それも単にニュースでわかるものではなくそこにある程度経験に裏打ちされた信用が付加された形で提供されるものを求めていたのである。
つまり友達の近況を知ることではなく、知的好奇心を満たすために私はSNSを使っていたということになる。だからだんだんとFacebookがつまらなくなってきていた。
ただ、最近ではFacebookの投稿には友達の近況ではなくニュース記事に対してのコメントが増えてきている。これでもいいのでは...?いや、ダメなのだ。私は質と同時に量も求めている。そのため、ニュースを見るという用途で考えれば文字数制限もありUIが見やすいtwitterの方が適しているのだ。
<ちょっと脱線>Newspicksでいいのでは?という方へ
上記の「様々な分野の最新知識や知見を専門家からの視点で知りたい」というジョブを解決する上で、Newspicksがあるじゃないかという意見が出てくるだろう。私もそれはなぜだか考えて見た(私はNewspicksも使っているが、Twitterの方が最近かなりの割合で使っている)。
Newspicks上では、様々なニュースに対して専門家や一般の人の立場からコメントをすることができる。これだけ見るとジョブが解決できそうな気もするが、私が求めているのはこれだけではないらしい。ポイントは「様々なニュースに対して」の部分。つまり、Newspicksでは日々のニュースへのコメントしか行われないのだ。
一方Twitterは、もちろん自分がフォローしている人のニュースへのコメントを見ることもできるし(結構専門家はツイートしている)、何より重要なのは日々の生活の中での気づきをツイートしてくれることである。これが一番の違いであり、私が求めている情報だったのだ。これはNewspicksでは提供してくれない情報だ。
最後に
ジョブ理論で考えることにより、自分や周りの人がなぜある特定のプロダクトを使っているのかがみえてくると同時に、自分があるプロダクトを作る際にも自分がどのようなジョブを解決しようとしているのかを意識する必要性を実感する。ちょっとした違いがそのプロダクトを使うか使わないかを左右するのだ。
ただ誤解しないでいただきたいのだが、私が今後Facebookを使わないといっているのではない。用途が違うのだ。情報収集の場として今の私の状況に適しているのがTwitterなだけで、この状況はもしかしたら今後変わってくる可能性もあるし、周りの人たちに自分の近況を伝えたいとなった場合はFacebookを使うだろう。
従来のような「20代男性は〇〇をよく使う傾向がある」という形での顧客の理解では、今回のような洞察は生まれなかっただろう。なぜ、何を解決するために顧客はそのサービスを利用しているのか、という因果関係に答えなければ、本当の意味でそのサービスを理解することに繋がらないということを実感した。
皆さんも、普段使っているサービスをなぜ使っているのかを考えて見ると、思いもよらない発見をすることができるかもしれない。
点ではなく、線で。
はじめに
今から7,8年くらい前からデザイン思考という概念が浸透し始めていたらしく、聞いたことはあったものの、結局なんのことかさっぱりわからない状態だったので、ティムブラウンの著書『デザイン思考が世界を変える』を片手にデザイン思考とは何かについて考えてみました。
デザイン思考って?
まず結論から。
デザイン思考を一言で言えば「点ではなく線で考えよう」に尽きるのではないかと思います。プロダクト単体としての点で考えるのではなく、プロダクトをあくまでも一つの要素とし、それ以外の全体の流れをしっかりと考える。そうすることで、流れ全体として問題を解決するためのアプローチが思いつく、ということです。
あるプロダクトやサービスを考える際に、そのプロダクトで何を実現させるかを話す前に、ある目的を達成するために、ユーザーはどのような体験をしてきていて、どのような気持ちなのか考え、その上で自分たちが提供したいプロダクトはどのような立ち位置であるのかを理解することが非常に大事だということです。
別に新しくない?
もうデザイン思考自体が概念として社会に広まってきているためか、正直この部分関しては知識としては目新しいものではなく、仕組みを考える上で部分だけではなく全体から考えるというのは当たり前のことのように思います。
一方で、わかっていてもできないことが多いのが実際問題だと思います。それは、個人の問題としての問題と、組織としての問題があると思います。
個人としての問題とは、目の前の問題にとらわれすぎてしまい、全体に目を向けることができなくなっている状態に陥ることです。いわば木を見て森を見ず状態。この状態から回避するためには、一度俯瞰することが大事だと思います。俯瞰するというのは、抽象度を高めるということです。百貨店の売り上げについて考えているのであれば、小売業界全体について考えてみる、マグロについて考えているのであれば、魚について考えてみる、といった具合です。そうすることで、全体としての部分の立ち位置、または部分同士の繋がりが見えてくるようになるはずです。
もう一つの組織の問題は、個人がプロジェクトのある特定の部分しか担当する必要がない場合に起こります。他の部分は自分に関係がないのだから、自分の担当部分だけをやっておけばいいという思考を助長し、結果的に全体として整合性が取れず、ストーリーとしてチグハグな状態が出来上がってしまいます。組織として、プロジェクトとして大きくなるほど難しくなっていく問題です。ここへの対策として、ティムブラウンは異分野の専門家複数で小さなチームを作成することを提案しています。心理学、エスノグラフィー、エンジニア、ビジネス...。それぞれの専門家が一つの問題に対してそれぞれの領域からアプローチしていくことで、本質的な問題解決に繋げようということです。
この考え方は今後より重要になっていくはずであり、単に専門領域を持つだけでなく、他の領域に対しても寛容であること、理解をすることが必要だと思います。
おわりに
実際にデザイン思考をざっと学んで思ったことは、これまでの考え方を改めなければいけないということです。
デカルト以後の近代の考え方は、問題は細分化することで解決されるというものでした。しかし、今日に入り、問題自体が様々な原因により複雑に絡み合い、専門領域も多岐に渡っている中で、本当に細分化すれば問題は解決できるのでしょうか。あちらを立てればこちらが立たず状態に陥ってしまいがちなのではないでしょうか。
これからはティムが提唱するように、一つの問題に対してあらゆる専門領域を持つ人々が協力し、解決をしていくことがより一層重大だと思います。
読者の皆さんは、どう思いますか?
自分に嘘をつかなくなったら、自分のことを理解できるようになった話
はじめに
皆さんは日常いきている中で、息苦しいなと思ったことはありませんか?私は高校の時まで友達といる時には全体の空気を何よりも重んじて自分を押し殺す生活をしていました。ものすごく生きづらかったです。そんな私が大学生になり、周りに流されず自分に嘘をつかなくなったら前より自分を理解できるようになったよ、ということを述べていきます。
最近感じること
最近すごく社会全体として問われているように思うのが「自分は何がしたいのか」「なんのために生きているのか」です。いわゆる私たち「ミレニアム世代」や尾原さんの『モチベーション革命』の中で言われている「乾いた世代」にとっては、地位や富を築くことではなく、自分らしく生きていきたい、自分がやりたいこと、好きなことを追求していきたいということを大事にする傾向があります。そのため、上記の問いは非常に大事であると言えます。
ただ実際には「そもそも自分がやりたいことってなんだっけ」とか「好きなこと、やりたいことってなんだっけ」という問いに答えられずつまづいている人が周りを見ていてすごく多い気がしています。
どうしてわからないのか
では、どうしてそのような問いに答えることができないのでしょうか。もちろんまだまだ経験の浅い大学生までの自分にそのような問いに明確に答えることはそもそも難しいでしょう。
ただ、少なくとも「自分に嘘をついている人に自分のことを理解できるわけがない」のではないでしょうか。自分のやりたいことを抑え込んで、社会や周りの求めるものを優先させてしまっている人が、いざ自分の好きなことを見つけようと思っても、何が好きなのかわからないのは無理もないでしょう。やっていないのだから。
自分が何を大切にしているのか、何が好きなのかということは、日々自分に嘘をつかず、押さえ込まず、正直にいることから理解できるようになって行くのではないでしょうか。
私が大切にしてほしい2つのこと
ここで私が言いたいことは二つあります。それは、
①様々な場面で感じる自分の内面から発せられた感情や欲求を大事にすること
②自分に嘘をつかず、それらの気持ちを抑えつけないこと
です。
①感情や欲求を大事にする
人間は日々色々な場面に遭遇して、その度に感情が動きます。感情が動くということは、意識的であれ無意識的にであれ、自分にとって何か意味があるという証拠です。その際に、ぜひ「なぜ自分は今このような感情を持ったのだろう」と問うてみてください。この問いが、自分への理解の第一歩だと思っています。
②自分に嘘をつかず、受け入れる
次に、その生まれた感情、欲求を無理に抑えつけないことです。自分がちょっとでも面白そうだな、楽しそうだな、と思ったことに対しては、常に肯定的な気持ちを持って、受け入れ、なんらかの行動に移してみてください。そうすることで、少しずつ自分独自の好みの傾向が、自分自身でわかってくるはずです。
最後に
人は誰でも知りたいという好奇心や、やってみたいという欲求があります。しかし、小さい頃からあれはだめだこれはだめだとその欲求を周りから否定されたり、周りに合わせるために自分自身で否定したりしてきて、その欲求の源泉が見えづらくなっている人が多いのではないかと思います。これからますます余暇の時間が増え、自分自身で自分自身を楽しませる「責任」が生まれてきます。正直自分がどうすれば楽しくなるのかということがわからない人にとって、これからの人生はかなり退屈で、つまらない物になっていってしまうのではないかと思います。
自分に嘘をつかず、自分を楽しませるような環境に身を置いたり、自ら創り出すことができる。そんな人がたくさんいるような社会を願っているし、創って生きたいと思います。
主張のない根無し草
「自分が何を伝えたいのかが明確でない状態で何かを発信することは、出口のない迷路のようなものである」
自分の伝えたいことを明確にして物事を発信している人がどれだけいるのだろうか。最近の記事を見てつくづくそう思っている。自分が拾い上げてきた事実を延々と述べ(本当に事実なのかどうかは定かではない)、最終的に何を伝えたいのかをうやむやにする。しかし、キャッチーなコピーをつけて読者に甘い蜜を吸わせようと必死になっているため、記事内容とは異なるタイトルをつけ、ミスリーディングを誘う。読者は読者でそれを鵜呑みにし、世の中への感度が損なわれていく。
主張とは、個別事象に対して自分独自の切り口からの意見を述べることである。誰かのモノマネではない。何も考えずに情報だけ取り入れる人や誰かの意見のみをインプットしているだけの人は、自分の意見を持つことなどできない。自分で考えることなしに自分の意見を持つことなどできないからである。そうした人は、知らず知らずのうちに誰かの考えが自分の頭の中に断片的に染み着き、その積み重ねによって自分の頭が出来上がっている。もうそうなると、自分の頭で考えているのか、誰かの頭で考えているのかわからなくなってくる。
誰もが簡単に情報にアクセスできるようになっている今、そうした他の人の頭だけで考える「移植人間」が増えてきているように思う。考えない方が楽だし、それっぽいことをつらつらと述べることができるから自分で考えようとはしない。
そうした人間が増えていくとどうなるか。自己主張のないロボット人間の完成だ。しかも何がたちが悪いかって、誰かに植え付けられた考えを、あたかも自分で考えたかのように錯覚し、堂々とその主張を述べるのだ。そうした人にまた感化される人も見逃せない。
断片的につなぎ合わせてできた人間は軸がなく、ポロポロと剥がれ落ちやすい。何が良いことなのかという判断軸は自分ではなく、権威を持つものに委ねられている。そうした人間は危険でもある。洗脳されやすいのだ。ネットワークビジネスに翻弄されてしまうような人はまさにその類である。
では、どうすればそのような状態から脱却することができるのか。結局自分の頭で考える他ないだろう。特効薬のようなものがあれば良いが、長期的に役に立つものほど簡単には手に入れられないから仕方がない。そして少々この「自分の頭で考える」というものは厄介なのだ。なぜなら、これは明らかに人間の本性とは真逆を行っているからである。人間は考えない方が楽なのだ。その方がエネルギーを使わなくて済む。
自分の主張を作り出すためには、日々自分のなりの視点で考え続けることが重要である。自分なりの視点というのは、おそらく過去の経験から裏打ちされた自分だけが持つ感性や直感といった部分が大いに関係してくるだろう。同じ状況であっても人それぞれ考えること感じることは違うであろう。
何か感じるたびに、どうして自分はこのようなことを感じるのだろう、と自問してみると良い。自分が気づかなかった自分というものに出会えるからだ。こうして自分なりの視点が見えてくる。それは大事にすべき個性、とも言えるものである。
だから周りの雑音に振り回されずにいるためには、常に自分で考えることが重要である。そのあとにその題材に関しての他の人の意見を聞いたり見たりしてみると良い。そこで鵜呑みにしていた時の自分では見つけることができなかった新たな発見があるはずだ。
人が感動する時ってどういうときだろう?
はじめに
最近人工知能という言葉をここぞとばかりに連発しているメディアばかりなので、
今回は人工知能に内蔵する必要がない(少なくとも初期のものではとここでは言っておく)、かつ人間が求めていると考えられる"感動する"ということについて考えていきたいなと思います。
なお、完全に独断と偏見に基づいたものですのでご了承ください。
そもそも感動って?
人によって感動するポイントはそれぞれですよね。
同じ映画を見ても感動する人しない人がいる。人間ってつくづく不思議ですね。
一応ここで感動の定義を見てみます。
感情,情動,気力などを含む総括的用語。精神機能を知,情,意に分類する場合の情にあたる。狭義には,喜びとか興奮とかを意味することもあり,また特定の対象に対する感情反応をさすこともある。
(コトバンク)
んーなんだかわかったようなわからないような。
まあここでは単純にここでいう感動は「感情が動くこと」くらいにしておきます。
(そのまんますぎますが...笑)
もしかしたらみなさんの中には涙を流すような場面を感動した時だと考える方もいるかもしれませんが、この定義に則って考えると、より広義な意味での感動になってきます。
つまり、今の感情の状態が変化している時点で感動をしているということになります。
ゴミ箱にゴミを投げて入った時、友達と少し口喧嘩をしてしまった時、欲しいと思っていたものが手に入った時などなど、考えてみると思ったより人って感動しているんだなって思います。
感動する時ってどんな時?
さて、ここで本題です。
人間はどのような時に感動する、つまり感情を動かされるのでしょうか?
先ほども述べた通り、感動するポイントは人によって違い、またその大小も異なってきます。そのような違いはどこから生まれてくるのでしょうか?
先に結論から述べると、その人のこれまでの経験からくる思い込みや想像を超えたときに感情は動かされるのではないかと思います。
例えば、映画で考えてみましょう。
たまに最初の頃から伏線がありすぎて結末がわかってしまうものなどがありますよね。どうしてわかってしまうかというと、それまでにそれと似たような映画やドラマを見たことがあり、「結局はこうなるだろう」と推測をしてしまうからです。
これはなんとなく分かると思います。ようは飽きてくるんですよね。同じものばかりだと。(飽きるという人間の機能は非常に大事だと思うので今度記事書くかも?)
逆に全く未知なもので次にどうなるかわからない時ってドキドキしますよね。あの時感情動いてますよ、はい。
人間は未知なものであればあるほど次の予測ができなくなり、結果的にそこに感動が働くのではないかと考えます。
感動したければ経験したことのないことをしてみることが大事だということですね。
また、これはビジネス目線で新たなサービスやプロダクトを作る際にも、いかに感動を生み出すものを作り出すことができるかというポイントが大きいと思います。
新たな体験を生み出すことのできないサービスは、顧客側がすでに使ったことがあるような気持ちになってしまうので、うまくいかないと思います。
日々ドキドキしながら、生活をしていきたいものですね。どんどん新たな経験をしていきたいと思います。
うっとおしいハエから人間の素晴らしき発明を考えてみた
動物に意志はあるのだろうか?
今日は図書館で二匹のハエを見た。二匹ともあいていない窓から外に出ようと必死であった。まるで太陽にたどり着くと思ってのはらを全力疾走で走る少年のように。
とにかくうっとおしい。羽音や窓にぶつかっては離れるその動作が私の聴覚、視覚、そして触覚さえもコントロールしようと存在感を示してくる。
いろんな意味でうるさいので場所を移そうと荷物を整理しようとした時ふと思った。
動物に意志はあるのだろうか、と。
意志というか願望に近いのかもしれない。生物が本能的に求めるものだ。
生きづらい場所ではなく、自由に羽ばたくことができる世界に飛び出したいという本能的欲求がハエから見て取れた。何度もなんども開かない窓に向かって自分の身を投げ出しているハエ。
そこにはもしかしたら何も思考はないのかもしれない。でもそこから出なければいけないという本能的な何かが彼らをその衝動に駆り立てている。
しかしここで新たな疑問が浮かんできた。
どうしてハエは窓を超えたその先に自由な世界があることを知っているのだろうか?
その窓はモザイクみたいになっており、外はほぼ全く見えない。
過去にその自由な世界にいたこと、空間認識能力により、その先に外があることを察知しているのかもしれないあるいは、ただ何も考えず前にあるものに突進しているだけかもしれない。
こんなことはハエになってみないとわからない(そして現状私にはハエになる手段を持っていないし思いつきもしない)。
しかし、人間から見たらその行為は頭が悪いとしか言いようがない。
他に外へ行く道などいくらでもあるからだ。現に人間はちゃんとドアのついた入り口から出入りをしている。
だとしたら、ハエは学習能力がないということになる。
もし学習能力があるとしたら、一度失敗した経験を次に生かし、他の方法を考えるだろう。
このことからも、人間が進歩することができた大きな理由が、言語を使って思考・学習をすることができる能力を持っていたことということが言えるだろう。
人間は言語という道具を発明をし、それを使って新たなアイデアを生み出し、実行に移して行った。
協業、分業というコミュニティの形、新たな道具の発明も、すべては言語能力があってこそのものだ。
そう考えると人類がここまで発展していった最大の大きな発明は言語であろうと言えるのではないか。